№101 百聞は一見に如かず産

自宅出産

3人並んだー!
次男は無邪気、
長男はいつも我慢してたな。
旦那が夜勤中、入院直前に、陣痛に耐えるわたし。
パンツにお産パットあててくれた年長の長男。
今なら、ギューって抱きしめたい。

この記事の見どころ

・助産師のお産
・病院と自宅出産と両方味わう
・東日本最震災に遇う

赤ちゃんが出来た!その時の気持ちは?

吉田百さん
吉田百さん

1人目を妊娠したのは、助産師になって7年目の頃でした。

助産師としてお産をたくさん見てきたとはいえ、自分が妊娠することはまったく未知の経験。

妊娠しているとは思わず、飲酒もしていました。
妊娠する可能性があることは当然わかっていたのに、
妊娠がわかった時には「えっ?」
と驚きのほうが大きかったです。

気づいたらつわりがひどくて、
喜びよりも「具合悪い」「大変」「しんどい」という気持ちが強かった。

胸が敏感になったり、乳首や恥骨のあたりがやたら痒くなったり、
自分の身体に起きる変化が新鮮でした。

妊娠12週頃、夜勤で分娩介助直後、未妊健飛び込み入院、逆子の緊急帝王切開。
つわりに耐え目眩し、うずくまったものの、一晩乗り切りました。
その後連続日勤をしていたら、目がチカチカして目の前が真っ暗になり、分娩室で床にしゃがみ込んみました。まさかの白衣で車椅子搬送され緊急で頭部MRI検査。
血圧は200近く。
今思えば、息子が『母ちゃん無理するな』と言っていたのかな?

この経験があったので、2人目、3人目は母子手帳交付と共に妊娠証明書を提出して
夜勤を免除してもらいました。夜勤ができないと即外来へ院内異動。
お産のことはプロでも、外来は、幅広く耳鼻科、循環器や外科など、助産師には未知の世界。
人事異動は大変、若いわたし。
よく頑張ったな‼︎と思います。

産休前32週まで働きましたが、24週頃にチクチクお腹が張り、1週間ほど病休を取りました。
下手に妊娠経過を学び身体のことが分かるからこそ早産が怖い。
買い物にも行かず、誰にも会いたくない。
3階の部屋から一歩も外出せず、真夏に編み物をして引きこもっていました。

1人目のときは、「助産師なのに、、」と言われるのが怖かった。
自分が、緊急帝王切開で生まれた話を誕生日のたびに聞いて育ち、
生まれてくる瞬間を知りたくて助産師になった。
どこかで、私は緊急帝王切開にはなりたくない、という気持ちもありました。

お産のリアル

吉田百さん
吉田百さん

夜勤明けの夫の胸ぐらをつかんで叫んで、必死に産むことに集中した。

予定日が近づいても何の兆候もなく、予定日近くなると、今は天国にいる祖母が毎日夕方になると、里帰りの実家に電話をかけてきました。当時は携帯電話より、固定電話。
ベルの音に敏感になり、だんだん怖くて電話にも出られなくなっていた。
でも今になれば、それも祖母のお産を控えた孫に対する愛情だってわかる。
なんで素直に不安な気持ちをばあちゃんに伝えられなかったんだろう。。

と振り返ることができるのです。

予定日翌日に前駆陣痛が来て2日後、半日以上かかって長男が生まれました。
子宮口が全開になってから2時間、分娩台の上でもがき吠えていました。

『おかしい、、このままでは、帝王切開になってしまう、、、』

陣痛のたびに骨盤が砕けそうで、夫の胸ぐらをつかんで叫んでいたけれど、
何を話していたのかは覚えていません。
職場に配慮いただき、夜勤明けに駆けつけた夫の夜勤明けの汗の香りは忘れません。

それでも、叫びながら下から産むことができた。

30歳で長男を産んだ経験を通して、助産師として何かが変わりました。
分娩台での介助、背中のさすり方、お尻の保護の仕方。ママへの声の掛け方、寄り添い方。
実際に自分が産んでみて、分かったことがたくさんありました。

2番目は自宅出産

吉田百さん
吉田百さん

体験が、自宅出産という選択につながった。

一緒に働いていた先輩が開業したこと、友人が自宅出産をしたことがきっかけでした。
わたしもその先輩にお願いして、自宅で産むことにしました。

わたし自身、助産師学校の実習では、茨城県内の2か所の助産院のお産を見ていました。
自然なお産を目の当たりにした。
就職して助産師と言いながら、「自分はあのお産じゃないんだ」という思いがあったのかもしれません。
その体験が、『わたしも自宅出産したい』という選択につながったのだと思います。

隣町のクリニックの先生に協力してもらい、妊娠中は定期的にエコーなどの健診を受け、
緊急時には総合病院へ搬送できる体制を整えてのお産でした。

当日は、夜中でしたが勤務も被らず同僚や先輩を含め助産師が4人集合してくれました。
母や一緒に働いていた仲間もいて、夫も沿岸の単身赴任先から2時間かけて帰ってきた。
2歳の長男もその場にいました。
『痛い、痛い』と陣痛に苦しむわたしの姿に驚き、
『痛いのやめて‼︎』と泣き出し、夫におんぶして散歩に連れて行ってもらい、
誕生の瞬間は長男立ち会い叶わず、結果夢の中での弟の出産になってました。

わたしはフリースタイルで、立膝つき夫にしがみついて産みました。
四つん這いになり腰を振ったり、自分の楽な姿勢で過ごしたり。
長男同様恥骨は相変わらず割れるかなと思うくらいとても痛かったけれど、
畳の上、布団の上で自由に産めたことがとてもよかった。

助産師さんは、休むことなくずっと身体をさすってくれました。

「いい汗かいてきたね」「そろそろだね」「上手だよ」と、ずっと褒めてくれる。

母体の保温の管理、レッグウォーマーを履かせてくれたり、あったかい番茶を飲ませてくれて、
ずっとそばにいてくれる幸せを感じました。
助産師さんが、『これ食べて』と持参した餡子のおはぎを一口食べてお産に臨みました。

私が働いていてできない世界でした。

夜中1時頃に生まれ、2時間後まで、隣の部屋でみんなコタツを囲んで乾杯していました。

助産師さんは、母子の観察をして明け方に帰っていきました。

夫は一眼レフで記録、「我が子3人立ち会ったけど、感動したのは自宅出産だった。」と言っていました。

一方で、わたしは布団の下に敷いた防水シートを息子の遠足用のレジャーシートにしたら、思いのほか膝を擦り、そのたびに痛いし音がうるさくて、「どうしてそこをエコした?硬い、うるさいなぁ」となったことも覚えています(笑)。陣痛でもがいていても、会話や音には敏感でした。

きっと、分娩室のお母さんたちも同じ気持ちなんだろうなぁとそこで気づきました。

その直後、岩手県では、様々な事情により自宅出産はなくなりました。
自宅でのお産ができなくなり、年間10件ほどあった自宅出産も、20年前に途絶えてしまいました。

3番目は病院の分娩台で

吉田百さん
吉田百さん

病院で産むことについては、

時代の変化、「しょうがないな」という感じでした。

3人目は、旦那の赴任先での出産。

明け方陣痛開始から2時間家でギリギリまで待って、
夜勤明けの旦那の運転で病院へ。
3人目となると、一気に痛みが強くなり動けず、
出発直前、6歳になる長男に下着を履かせてもらった母です。

即分娩台に上がり2回ほどいきんで、到着から30分くらいで娘が生まれました。

妊娠中は夫は沿岸大船渡市に単身赴任、
わたしと子どもたちは盛岡にいて、車で2時間ほどの距離に離れて暮らしていました。
3人目のわたしの産前産後育児休暇を機に、再び沿岸で家族一緒に暮らすことになりました。

2012年7月7日に生まれた3人目の娘。
そこからは、バラ色の3年間育休生活になる予定でした。

東日本大震災のこと

吉田百さん
吉田百さん

3人目が生後8か月のとき、3.11東日本大震災が起きました。

盛川から溢れ出す津波から逃げるため、
スリングで娘を抱っこし、背中にはあと10日で4歳になる次男を片手でおんぶ。
6歳の長男と手をつないで、官舎のお母さんたちと子連れ20名ほど高台の市役所へ、
必死で走り避難しました。

このとき、モーハウスの授乳服が大変役に立ちました。とにかく不安だったので、
小学校に避難中もずっと泣かせたくなく授乳していて、常に子どもとつながっている状態でした。

トイレに行きたくても、地鳴りの余震が怖くて子どもたちと離れたくなくてぎりぎりまで我慢していました。

『防災と母乳育児』

わたしの今に繋がるテーマです。
携帯の電池は切っていました。
当時はガラケー、スマホじゃなかった、、、

停電、寒い、春なのに夜には雪が降る。

今のように情報がすぐ手に入るわけではなかった。
「いったい世の中何が起きているんだろう」という状態。

地鳴りを伴う余震も続き、お母さんたちは子どもを抱えみんなで何も話さず固まって過ごしました。

子どもたちはどの子も静かに午睡の時間かと思うように円陣くんで眠っていました。
お母さんたちは必死に子どもを抱えて、ぎゅっと抱きしめていた。
夜になり、初めて学校に炊き出しのおにぎりが届き、「65歳以上の方たちから、、」と聞いたときには、「あれ?小さい子たちは?チビたちからじゃないの!?」と思ったことも覚えています。

その後、乳飲子を抱えていたわたしたちを見かねた自家発電のできる知人のお宅に避難し、
そこで初めてテレビの画面を見て驚きました。

陸前高田市壊滅的、宮城県仙台市若林区沿岸、、、千葉コンビナートの火災、という映像でした。

日本はいったいどうなっちゃってる??

乳飲子含む20人近くで座敷に雑魚寝をして一晩を過ごしました。
みんな警察官の妻、
「夫はもう駄目かもしれない」という思いがあったと思います。
でも、誰もそのことには触れませんでした。

『これから、わたし一人で3人育てていくのかな。』
ただただ我が子たちを守る態勢で夜中続く余震に耐えました。

翌朝になって夫がヘルメットを被り避難先に訪ねてきて、
「官舎のみんな無事だったよ」と一言教えてくれました。

みんなで家族の無事に安堵した朝。

そこからが子どもを抱えて被災地の生活の始まりでした。

この震災を経験して、わたしは『もう好きなことをして生きよう』と思うようになりました。
公務員を辞めて、人生は一度きりだから、やりたいことをやっていこう、と。
それまでは、やりがいある仕事、生活は安定していても、本当にやりたいことをやれなかったから。

子どもたちは、みんな大きくなりました。
でも、生まれたときはみんな小さかった。

ひとつひとつの経験を重ねて、ほんと大きくなったな、逞しくなったな。と今思います。

産んだあとの気持ち

吉田百さん
吉田百さん

長男のときは、初心者のママです。何するにも心配でしょうがなかった。

産後しばらくして疲れも出てきました。

この地域では、赤ちゃんが生まれると親戚や地域の人が里帰り先の実家にお祝い挨拶に来る風習があり、3週間目にはもう疲れてしまって、誰にも何も話したくない、会いたくなくなって座敷に篭りました。
だからわたしは、赤ちゃんが生まれてもお祝いの挨拶に行かないんです(笑)。

この経験から、2週間健診の大切さも感じました。
助産師だからこそ分かることもあるけれど、退院後のママの身体気持ちの変化。
助産師自身が知らないこともあるんだ、と気づきました。

自宅出産した2人目は、産後1か月で旦那の異動先の沿岸大船渡市へ転居。
知人もいない土地、乳飲み子を抱えて、今思えば心身ボロボロ産後うつ状態だったと振り返ります。

手元にいる2歳の長男は思うようにいかないし、知り合いもいない。

とにかく孤独でした。
この頃は、子育てサロンなどもあまりありませんでした。
次男を抱き、長男の手を引き、河川敷を散歩して昼寝させることの繰り返し。

3か月くらいで、産後プチうつになっていたのかもしれません。

図書館、保育園や子育て支援遊べる場所を探して、とにかく外に出ました。
少しずつ環境が落ち着くにつれて、わたしも息子も気持ちが落ち着いていきました。

生後5ヶ月次男の入院という経験もありました。
重い病気かなと悩み枕に涙流しました。
きっと疲れ切って食欲もなかったわたしの枯れた母乳も影響していたかもしれない、と今になって思います。

助産師って、お産の介助だけじゃないぞ。

吉田百さん
吉田百さん

ちょっとした子育て支援を始めました。

3人目はゆっくり三年育児休暇の予定。

旦那の赴任先、沿岸大船渡市へ出戻りしました。
ママ友や知り合いも増えていたので、1年半ぶりの再会。
夢いっぱいの生活。
子ども達もわたしも笑えた。
孤独ではありませんでした。

以前職場の上司だった「こそだてシップ」の伊藤怜子さんに誘っていただき、
娘と共に地域で赤ちゃんの体重を測る母子サポートや、ちょっとした子育て支援に参加、
と思った矢先に3.11の津波に襲われました。

震災半年後から、
陸前高田市と大船渡市で、
子育てサロンを月2回ほど開催しました。
このママサロンがあったから、わたしは被災地で3人の子育てを鬱にならず乗り切れたと思います。
わたし自身にとっても、その時間が大切でした。

我が子は、育児休暇中でありながら学童や幼稚園に預け活動に没頭しました。
「可哀想なことをしたなあ」と思う気持ちもあります。
でも、地域のママたちと関わったことで、病院とは違う形で、
産後一年近く、毎月お母さんたち、子ども達のそばにいることができました。

内陸に来てからも、職場復帰までその活動は続けていました。

助産師って、お産の介助だけじゃないぞ。
お産の瞬間だけではなく、産後も、地域の中で、お母さんたちのそばにいることができる。
自分自身の出産と子育てを経験したからこそ、そう思うようになりました。

当時の自分にかけたい言葉

吉田百さん
吉田百さん

「よく頑張ったね!」

なんだかんだ20年ちょい、必死に突っ走ってきたよね。
みんないい子に育ったよ。

わたしのもとに来てくれてありがとう。
子どもたちから「母さん、腹出てるよ。妊娠何ヶ月?」と言われると、
すかさず「あんたたちの故郷よ」ってポンとお腹に手を当てて笑って返しています。

5人集まると笑いが絶えない、
あったかい家族。
ホントにありがとう。

編集者より一言

百さんとは、昨年の秋田で100人のお産展示を開催した際に、中学の娘さんと一緒に駆けつけてくれて、展示を手伝ってくれたご縁。
岩手県でも100人のお産展示をしたいという話があり、まずは百さんのお話を聞くことから始めました。百さんは助産師としての視点、お母さんになって分かったことを聴かせてくれました。
また、東日本大震災での経験、子育て支援は、その経験があったからこそ。多くは語られませんでしたが、きっとそこでも、忘れられない出会いと気づきが沢山あったことと思います。
また、避難時、授乳服があったことで、子どもと一体となってすごせた話。災害時、小さいお子さんと母親がどのようにして過ごすのかを考えるうえで大事な視点だと感じました。やはり母乳は万能ですね!百さん、貴重なお話を聴かせていただき、ありがとうございました!

百さんと開催する岩手県の「100人のお産展」、詳細はこちらから!
お近くの方は是非、遊びにいらしてください。
ちなみに・・

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