今日は東京都・青ヶ島に残されたお産の習俗(今は途絶えています)を
調査・研究されている松本亜紀先生(一般社団法人倫理研究所倫理文化専門
研究センター専門研究員/民俗学者/千葉大学・津田塾大学非常勤講師)からお話を伺います!
青ヶ島村は東京から南へ約360キロメートル、
最も近い八丈島からも70キロメートル離れ、
人口は163人(2020年)の日本一小さい自治体です。
その小さい島では女性は1人で産むのが
当たり前だったのでしょうか?
産むのは1人でも、実は、介助者がいるんです。
1人で子どもを産んだと思えるサポートが
なされるなかで、産んでいた、という表現の方が適切かもしれませんね。
その背景や、どんな介助だったのか、気になります!
聞かせてくださーーーい!!
東京都青ヶ島でのお産の様子
お産の話を聴き始めたきっかけはなんだったのですか?
職場に八丈島や青ヶ島のシャーマニズムについて研究している
文化人類学者の方がいらっしゃり、
青ヶ島への取材に同行したことが始まりでした。
島の女性たちと話をすると、
あっけらかんと、「1人で産めるのよ」というんです。
定説(※)では女性は1人では産めないとなっている。
これは、わたしが聞いた話に光を当てないといけない、
と感じたことがきっかけでした。
※定説についてはこ記事終わりのあたりで解説しています
実際に「1人で産んだ」経験と、
出産介助の経験を持つ60~90代の
女性15名から話を聴かれています。
そのうち2名は出産経験がありませんでした。
(年齢は取材当時)
亜紀先生は2006年に初めて青ヶ島に行ったそうですが、
当時、女性に対する『ケガレ』概念(=生理、出血を忌み嫌う感覚)
を忌み嫌う感覚がまだまだ残っていたそう。
青ヶ島では生理のことをタビ(他火)と言いますが、
これは、火を介して『ケガレ』が移る、だから火を別にする、
というところから。
巫女さんたちは神様の前に行く存在なので、
お産の話も月経の話も忌み嫌いました。
なのでお産の話を聴き始めてから
3年たっても、
なかなか詳しい話は聞けませんでした。
面白いのはこの『ケガレ』の意識。
巫女たちにとっては『ケガレ』であっても、
一般の人にとっては
大して気にとめるものではなかったようです。
また、青ヶ島でのお産は、
集落と隔離された
産屋(青ヶ島ではタビゴヤ=他火小屋と呼ぶ)にこもってのお産でしたが、
これはお産が『ケガレ』ているからではなく、
周囲がケガレているから、
そのケガレを産後の女性や赤ちゃんに付与させないため、
隔離することだったと話す女性もいたそう。
肝心のお産の模様は、
出産した方は
「産むのは私、介助者は手出し口出しせずそばにいるだけ」
と言い、
出産の介助をした方は
「お産の介助はしていない」
「産婦にも赤ん坊にも触れず、励ましもしない」
「見えない仕事」
「お産が始まったら、産婦の集中を切らさないよう息をひそめ、
産屋に人が入ってこないように見張るだけ。」
というものだったそうです。
つまるところ、
出産介助者は産婦が出産する環境を整えたり、
女性がお産に集中するためのサポートをしていた、
ということでした。
このお産が可能になった背景
かつて青ヶ島では、生まれた子が女児の場合、
仮親(=擬制的親子関係・生涯にわたる後見人)
が決められました。
この仮親が、その子の出産介助者となったそうです。
初潮が始まれば
「おなごのつとめ」として礼儀作法・起居動作・島の歴史・ルール・
月経の手当法・出産時の小屋の使用法・避妊、中絶法などの
知識や知恵を伝達しました。
妊娠すれば
徹底して心身の調整を促し、
出産に関する知識や知恵を伝えました。
それはその子の身体のケア、
こころのケア、
その人の全部をサポートするようなものでした。
聞き取り当時、90歳前後の女性が言うには、
閉経後に巫女になり、
島の安寧を祈ることが
青ヶ島に生まれた女性の人生の目標だったそう。
性格が合う合わないにかかわらず、
1人の女性の成長に寄り添う、
ということは、
ある意味では巫女になるための必要な修行であったともいえます。
なので、島の女性にとって出産介助者になるということは
より良く生きていくための
役割の通過点でもあったようです。
この継続的な関係は
出産介助者の人間的成長をもたらすものであり、
産婦にとっては
自分を信じ受け入れてくれる介助者の存在を
身近に感じながら
安心して出産に挑み、
産婦自身に強い自信と気概を
備えさせてくれるものでした。
この長く継続的な関係と、互いへの信頼関係、
産婦がお産に集中できるようにと
なされる細やかな配慮があったればこその
お産形態だったのですね。
この習俗が近代まで残されたのはなぜ?
他の島々とは遮断されたからこそ残っていたといえます。
ちなみにタビゴヤという形態は、名称は異なりますが、
それこそ、日本中いたるところにあったんですね。
近隣の島にも同じような習俗はあったものの、
もっと早くに近代化をされていき、
青ヶ島ほどには習俗が残らなかったそう。
この習俗が消えてしまったのはなぜ?
最後にこの形でお産をしたのは昭和53年。
その頃から定期船やヘリコプターが八丈島からくるようになり、
そこから一気に変わっていったようです。
こんなに主体的なお産がされていたのに、
なぜ記録に残されていないのか?
お産の研究が世界的にも注目されるようになったのは、
出産への過剰な医療介入が表面化した1970年代以降で、
青ヶ島のお産も1950年代初頭に民俗学者の男性が
書き記した事例のみでした。
この時代、お産=ケガレという意識が前提でした。
当時の記録は「お産は穢れである、
出来る限りお産に関わりたくない、
お産をしたくない」というもの。
が、事実は、
そもそも1人で産むので記録に残らない。
また、感覚としては排泄行為と同じくらい、
自然なことでした。
ゆえに、
あえて女性側の意識としても
それを残そう、というものではなかったよう。
それくらい自然なことでした。
(現代の感覚に置き換えると、
うんちやおしっこをするときの感覚や状況を
メモしたり、記録しようなんて思わないですよね)
また、記録をとろうとしても、
お産というのは
だいたいあっという間に終わっていたので
ほぼ記録に残せなかったようです。
定説:女性は1人では産めない身体・・って本当!?
自然人類学の通説『人間は1人では産めない』※
が定説になっているそうなんですが・・
助産院でのお産の模様や、
うっかり産んじゃった、という話もある。
このHPでも、1人で産んだ(結果的に1人だった)
方の話もシェアしています。
そして、この青ヶ島のお産の記録・・!!
今後、この定説が覆る予感に
ワクワクしてきます!!
※「ヒトは出産に際して他者からの介助を必要とする唯一の霊長類。ヒトが直立歩行を始めたために、胎児の通り道である産道が狭くなって児は回旋して降りてこなければならなくなった。これは、母親に背中を向けて娩出されることになる。そのため、介助者なしに産むことはできず産婆という近代最古の職業が生まれ、人間の共助の精神の基礎ができてくる」(科学雑誌『Nature』に掲載されたトリーバスンらの論文より要約)
これから亜紀さんが出されていく本によって、
定説が変わっていくかもしれません。
このHPで紹介している、1人で産んだケースはこちら。
↓第2子がスピード出産で、家で産まれています。
(医療関係者の方の話です)
↓助産院につき、水中出産用プールに入ってすぐ、第2子が産まれます。
ちょうどその時みんなその場を離れていたそう。
まとめ・・より詳しく知りたい方へ
亜紀先生!本日は大変貴重なお話をありがとうございました!!
ここでまとめたことは、亜紀先生の調査研究されていることの、
ほんのさわりの一部です!
より詳しく知るためにはどうしたらいいですか?
すでに刊行されている共著作として、
『助産の本質』をご覧いただいたり、
今後刊行予定の本を是非、お読みください。
2022年中に出版の予定です。
気になった方は是非チェックしてくださいね!
出版されましたら、
このHPでもお知らせいたします。
亜紀先生、また、
最後までお読みいただきました読者の皆様、ありがとうございます!
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